2011.11.11
なんで税理士に
記念すべき第一回は前のホームページでも掲載させて頂いておりました、
開業物語をいくつかに渡って掲載しようと思います。
「なんで税理士になろうと思ったのか?」と質問されることがあります。
「納税者の立場にたって会計税務のプロとして働くことで社会に貢献したい!」
なんていうカッコいい動機があったわけではなく、正直「なんとなく」でした。
それでも無理やり理由をつければ次のようなことだと思います。
①親が自営業で、帳簿に触れる機会があったこと。
②高校3年の1月に肝炎で入院し、そのまま7ヶ月入院。入院中に外出許可をもらって受験して大学に入学したものの、「大学受験」というおそらくほとんどの人が一生で一番勉強する時期に完全燃焼でき
ていなかったこと。
③普通に就職することを考えていなかったこと
④税理士試験をなめていた(2年で5科目合格する予定でした)こと。
受験勉強
税理士になるには、4つの方法があります。<税理士試験情報(国税庁)>
①税理士試験(5科目)に合格。
②大学院で科目免除を受ける
③会計士・弁護士になって税理士試験の免除を受ける
④税務署に一定期間勤務して試験免除を受ける。<採用案内(国税庁)>
私はよく考えて税理士になろうと決意したわけではなかったので、情報も著しく不足していました。
②~④のルートなど知らず、また、そもそも税理士試験の存在も大学3回になって始めて知ったというような状態でした。
3回生の秋から勉強をはじめ、大学4回生となった平成4年から税理士試験を受け始めました。
当初2年で5科目合格するつもりでしたが、勉強を始めて2週間でその計画が無謀であることを思い知らされました。
大学在学中は勉強する時間に困ることはなかったのですが、就職してからは、平日の夜と土日に専門学校へ通いました。
電車での移動時間も大切な勉強時間で、理論サブノートのコピーを持って、ブツブツ言ってたかなり怪しい人物だったかと思います。
就職してからはやはり時間的に厳しくなり、5科目全部合格したのは、受験し始めてから6年目の平成9年でした。
合格者は発表日の官報に記載されるのですが、あの日は大阪肥後橋の官報販売所で官報を買い、すぐに広げて見たい衝動にかられながらもこれを我慢し て、鼓動の高まりを感じつつ四つ橋線に乗り、イスに座るなり官報を広げて自分の名前をさがし、自分の名前を見つけて「よっしゃっ!」と小さくガッツポー ズ。
JR北新地駅の公衆電話から妻に電話。合格の喜びを分かち合えることが出来て本当によかったです。
独立の決意
「税理士試験に合格して税理士事務所を開いて仕事をする!」というような動機で勉強をはじめたのではなかったので、自分が独立するなんて、少なくとも勉強を始めた大学3回生の頃は想像していませんでした。
親が自営で年の離れた兄2人がおりましたので、小さな時からずっと「自分は社長となった兄貴の手伝いをする」と思っていました。
勉強を始めた平成3年の春に父親が亡くなり、長兄が若くして社長となり、ますます、その想いが大きくなっていきました。
しかし、大学卒業後、会計事務所で税理士業務をするうちに、その仕事の面白さを感じる中、徐々に「将来は自分でやってみたい」と思うようになっていきました。
そして、平成12年2月、自己啓発セミナーの受講をきっかけに、「自分の力を試したい」という願望を自分自身しっかりと認識することになり、独立することを決意しました。
独立のタイミング
勤めていた会計事務所は、給与水準が高く、時間的にも余裕のある職場でしたので、家族にとってはそのまま勤務しておく方がよかったはずです。
それでも妻は独立することに関して以前より賛成(というより提案)してくれていました。ただ、タイミングが問題でした。平成7年に結婚して5年目でようやく授かった子供が平成12年の秋に生まれる予定だったのです。
妻「子供が生まれたら自分は手伝えないし、経済的にも負担が出てくるし・・・もうちょっと収入の見込みがしっかり出来てからでもいいんとちゃうん」
私「そんなん言うてたらいつになるかわからん」・・・
そんなやりとりがあって、結局
妻「独立したいと思った時期が独立のタイミングなのかもね」
この辺り、なかなか男前な気持ちのよさを持っている妻です。
開業
それから1年半の準備期間を経て、平成13年7月に31歳で徳野会計事務所を開設いたしました。
開業にあたっては、本当に様々な方々のご支援をいただきました。
特に勤務していました石橋会計事務所の石橋正紀先生には、何かと不安な開業時に経済的・精神的にずいぶんと助けていただきました。
開業時のお客様は法人個人合わせて10件、月額顧問料22万。
事務所は乳飲み子を抱えた妻を唯一の戦力としていることもあり、また、そもそも家賃を支払う余地もなく、自宅2階の1室でスタートしました。
「2年で年商1千万、10年で年商1億」これが目標でした。